UNISON HAWAII

 

自分への愛をすすめる会会報  

2002年1月15日

NO.7 VOL.1

 

あけましておめでとうございます!  

旧年中はみなさまのサポートをいただき、本当にありがとうございました。

本年もどうかよろしくお願いいたします。

 

2002年も自分を受け取り、認めて、より自分を愛してあげましょう!

幸多く、慶び溢れる年になりますように!!!

 

さて、下記は、実は、昨年12月に書き始めたものですので、時間の感覚がおかしくなっていますが、ご了承ください。

 

**********************************

 

みなさまお元気ですか?  冬ですねぇ。ハワイもなんだか、冬だなと思う日がたくさんあります。空の色がなんだか、少し濃いというのでしょうか。陽の光が、ヤマブキ色に見えるというんでしょうか。でも、ああいう色結構好きなんですよ。日本の秋空みたいな感じです。今日は実はクリスマス当日。こちらは、クリスマス、一年のハイライトです。この日と感謝祭くらいしか、みんなが総出でお休みできる日がないです。家族と過ごす日ということで、街は、いたって静かなもんです。まるで、日本の元旦ですね。そうそう、子供の頃思ってたんです。なんで日本はクリスマス休みじゃないんだろうって。私、小学校のある時まで、それに気づいてなかった?  低学年は意識がはっきりしてない時もあったような気がするから、ぼーっと日を過ごしていて、ある時気づいたって言うんでしょうか?  「えっ? クリスマス休みじゃない?  どうして?」って。私、昨日これ気づいたんですが、本当に、クリスマス休みって言うのが私の深い所では当たり前な気持ちでずっといたように思うんです。それを考えてみると、過去生がヨーロッパ人だったことが多いって言うのがあるからかなぁと思うんだけど、とにかく、子供の頃から、私にとってクリスマスって大切でした。って言うか、大好きでしたね。プロテスタントの教会にずっと通っていたことなんかもあって、クリスマスは必ずお祭りでしたからね。でも今生だけのことじゃないんだろうなって、なんか、ふと思ってしまったんですよ。ここの所、日本のお客様とかに、クリスマスはみんな休みなんですよって言う話が多くて、そう言いながら、自分の中で、そうだ、私はずっとクリスマスは休みのはずなんだって思っていたのに、日本では休みじゃなかったって言うのに、ものすごく驚いていたって。なんでそれが驚きになるって、やっぱり、過去に敬虔なるクリスチャンのスペイン人をやったりしたこともある私だったからかもしれません。そうなんですよ。クリスマスは、お休み。これ私の過去生通してからの基本型だったんですね。なんて事に気づいたクリスマスでした。

 

みなさま楽しいクリスマスをお過ごしになりましたか?  ここ数年、クリスマスやら、感謝祭は、私の休日になってまして、一人で休む日になっております。それも楽し、と言う所です。今日ものんびりと休むことにします。トラコも玄関のすぐ外で寝てくれてまして、一緒にいてくれるのかな、今日は。

 

さて、2002年ももうすぐですね。日本はいよいよハイライトのお正月。(今年の紅白SMAP出ないそうで、おもしろくないよね・・・こっちは、紅白、元旦にいつもやるんですよ。)さぁ、どんな年になるんでしょうか!  楽しく、すばらしい年にしたいですね。

 

さて、12月16日に第17回自愛学トークをいたしました。久しぶりに、こちら在住のCOさんが出席してくださいました。お仕事の関係上、日曜日が休めないと言うことで、今回はたまたま時間が取れていらしてくださいました。ありがとうございました。そして、いつも来てくださっているエミリーでした。エミリー皆勤賞おめでとうのありがとう!  

 

今回のお話は、私がセドナにいた時のお客様とのできごとでした。20代前半の男性がいらして、恋人の誕生日のプレゼントに指輪を選んでいたんです。そして、サイズが合わないから、直しはできないかと尋ねられたんです。そこで、マネージャーに聞きに行くと、今はクリスマスシーズンなんで、時間がかかるから、おそらく1月の第2週になると言うことでした。それをその男性に伝えると「どうしてそんなに長くかかるの?」と言うんです。「そりゃ、今は、クリスマス・シーズンなんだから、誰でも忙しいんですよ。」ってちょっと、強い口調になっていたらしいんです、私。「あなたを責めてるんじゃないよ。ただ、情報を知りたいだけなんだよ、僕は。」って言われて、え?って、一瞬ポカーンとしてしまった私でした。私は、知らないうちに、このクリスマス商戦の忙しさの中、イラついていたんでしょうね。「どうしてそんなに長くかかるの?」の一言で、文句言われている、とかってに受けとっていた。だから、お客様にいいサービスができないことを責められている。もうもう、正当化する言い訳考えなきゃ、と頭は勝手に回り始める。

 

こういう事っていうのはよくありませんか?  いきなり自己弁護を始めてしまう自分っていませんか?  相手は責めているわけでもなんでもなかったのに。たとえば、人が、なにか自分がしていることで、その人にとってあまりうれしくないことだった時に、「それをして欲しくない」と言われたとします。それを聞いた自分は、知らないうちに、文句を言われている、イコール、相手は怒っている、イコール、相手は自分を嫌っている。みたいな数式のようなものができ上がってしまう。

 

実際に、ここ数日ご近所さんの間で起きていることがあります。お隣りさんは、クリスマスに子供達にバスケットボールのゴールを買ってあげたらしく、うちの家のすぐ横、共同で使っているドライブウェイにそれを置き、子供達は遊び出したんですよ。でも、遊び始めですし、子供は、まだ、上の子がやっと10歳くらい?で、下の子は、4歳に1歳半くらい?  ちゃんと入らないでボールは跳ね返って、うちの壁に当たる、って言うことが起き始めたんです。もう真横ですから、ましてや、その真横の部屋が私の仕事部屋ですので、家は、本当に揺れて反響してしまうんです。そういう事以前に、子供が外で奇声を上げていること自身、かなり耐え難いことで、以前そういう事のないご近所さんだっただけに、引越しまで考えたくなるところもあるんです。

 

この事は、随分悩みもしました。去年夏も似たようなことが、向かいの家の孫たちによって起きてまして、夏休みで、みんな遊びに来ていて、その時はホッケーでしたが、もうもうそりゃ、すごい勢いになって、ゲームだから、勝ち負けで大騒ぎ。それが毎日のことになり、私も家で通訳の仕事を電話でしたりしている時に、電話の声が聞こえないくらいになったり、終いには、家に激突してくる! こんなこと耐える必要があるんだろうか? でも、子供が楽しく遊んでいるのをうるさいなんて言うと、心狭いのかなぁ・・・・もうもう、悩みました。でも、子供を思いっきり遊ばせたいなら、公園でも行ってやらせればいいことで、確かに大声って言うのは迷惑なものだと、すごい思ったんです。もちろん自分に子供ができたら、本当に、大変なんだと思うんですが、大人が住んでいるところでは静かに住みたいと思っている人達がいて、それを主張する事は人の権利だと思うんですよ。これ書きつつ、自分の中で、子供を嫌っている心の狭い大人なのかしら・・・って自分を責めに入りそうな私がいて、戦ってます。

 

私は決して子供嫌いではないです。でもいつも子供の大声聞いていたいとは思わないということだと思うんです。お子さん持っていらっしゃる方だって、たまには子供の声聞こえないところへ行きたいと思われると思いますし、それは、当然のことだと思うんです。一生懸命、私は、自分を弁解しているように聞こえます。(笑)もう、弁解するのはやめます。私は、近くで、子供の奇声を聞いて暮したくない。それだけです。それは私の選択であり、自分のこうあって欲しいと思う環境作りは、自分を大切にすることであり、自分を愛する行為のはずです。そうするために、自分の意志を伝えることはとても大切なんだと思います。その意志を伝え、その通りになるかならないかは分からないけれども、少なくとも、伝え、妥協するという道を作ると言うことができるかもしれない。ましてや、嫌だと思っている人達じゃなく、仲良くしていきたいご近所さんだし。歩み寄りはすべきなんだと思うんです。そういう時こそ、相手に嫌われるかもしれない、と言う思いを捨ててやらないと、話が進まない。すごい勇気もいります。

 

前置きは長かったんですが、隣りの親御さんに話をしに行きました。その直前、一応私がどういう風にしたらよいか、大家さんに電話かけたんです。両方とも同じ大家さんなんで。大家さんはなんと言うこともなく「ボールが当たる音がうるさい、と言いにいけばいいよ。」と。私が、「遊ぶのやめてくれって言えって言うの?」って言ったら、「ボールで家が揺れるって言えば、後は、あっちがどうしたらいいか分かるだろう。」って、簡単におっしゃる。私の中では、せっかく親が大枚叩いて(かなりしたと思う。すごい立派なやつです)買ったものを、使うなって言うことが、すごい罪悪感でした。でも、うちも使っているドライブ・ウェイに置いて、遊ばせるってことは、うちに影響でないわけはなく、何の承諾も得ず、あちらさんもお買いになったのも確かで、これは、やっぱり、フェアーじゃないとも思ったんです。大家さんいわく、もし彼らが使いたいなら、道の方へ、足に車ついてるんだから、転がして持っていけば、少し、君の家からも離れるだろうって。私は、まぁ、そりゃぁ、大妥協だなと思いました。だって、道に持っていったって、4mくらいの違いだし、ボールはきっと来るだろうし、子供の声は止まらないだろうし。でも、自分の中でも、あれで遊ぶのやめてくれます、は言えないと思ったんですよ。それをお土産に、話に行きました。

 

ダンナさんは、私がこのバスケットボールのゴールのことなんだけどって話をし始めると、顔が緊張してきて、それで、私は、できるだけ、自分が怒りを持って話をしに来たんじゃないから、「私は、お隣りさんとして、あなた達のことは大好きなんですよ。それを分ってくださいね。」と言ったんだけど、もう、彼は、「文句言われに来た」と言うことで、構えちゃってる。きっと、こわさ、痛みがもう既に感じられちゃったんですね、彼に。仕方ないなと思い、うちがボール当てられて揺れること。遊んでる時にこの近さでうちにボールが当たらない方が不思議でと、できるかぎり、怒りのエネルギーじゃないということを出したつもりだったんですが、相手はひたすらだんまりで、道に出してみたらと大家さんも言っていたとか、私が仕事でいない日を教えるから、その時思いっきり遊ばせたら、とか歩み寄ったんだけど、もう、私が怒っていると思っているか、それとも、相手は、自分が文句言われている(= 叱られている)と感じたか、もう硬直した顔から出た言葉は、「SORRY」の一言で、それも歯を食いしばって出たような言葉で。私は、なおもしつこく、一緒にご近所やってるんだから、協力したいと言うと、やっと、微笑んでくれて、それで終わったんです。私の方も、相手が男性と言うこともあり、心が震えてしまいました。

 

だから、その後の私の心のケアが大変でした。しばらく、何もすることできない。ハートとみぞおちの当たりを手で押えて、一生懸命、自分の感じることを感じてあげましたよ。もう、罪悪感の波、まずは。そして、それを感じる必要ないって、当然の権利を主張しただけなんだから、罪悪感なんて感じることない!って、ほとんど怒りそうになってる私までいて。その両者、私の子供性達の感情を、両方とも受取ってあげなきゃいけないんだって、やっと遅れて出てきた私の大人性。もうもう、たーいへんでした。書き出しを、そうですね、3ページくらいやりましたかね。自分が心が狭いと思っている私はもうひたすら、罪悪感の波に溺れそうで、とにかくそれから救助して(笑)「私が悪い、って思っちゃったんだよね。仕方ないよ、人は心が広くなくちゃいけないって教わってきたんだから、どうしても、自動的に罪悪感出てきちゃうよね。いいよ、それで、いい。その気持ち出さないと、終わりにできないからね。」って、もうもうやりました。

 

そして、お隣りの旦那さんと話したって言うのも、男性、父性に逆らうようなこと言っちゃ、後が大変って思ってたりして、大嵐。これから隣りの一家みんなに嫌われて、無視されたりするかもしれない、とか、もうもう、怖い思いに翻弄されてしまいました。そして、それをやっていくうちに、相手に自分の意志を伝えてご機嫌悪くなるって言うことが、私のせいではないんだっていうことに到達し、落ち着きました。私の言葉を痛い、または、こわいと感じた人がそれを怒りとか、ご機嫌悪さに変えているだけで、サチコは何も悪いことしてない。サチコは人のご機嫌の悪さになんの責任もない。過去も現在も未来も、サチコの言動、行動でサチコの落ち度だったことは、一度もない。それは信じ込まされた幻想だよ。

 

感情と言うものの理解があればすぐ理解できることですね。感情と言うボタンを持っている人だけが、そのボタンを押されて、痛い、怖いを感じ、違う物にどんどんすり替えていってるだけ。それが、攻撃的に出れば、怒りに変り、受動的に出れば、悲しみになる。現代社会で、痛み、こわさのボタンをまるで持っていない人というのは、大人であれば、まずは、皆無なんだと思います。だから、こうするとこうなると言う、「ノーマル」と思われる感情反応があるとみんな信じている。

 

先日、子供を育てている方がまだ、5、6歳くらいのお子さんが、悲しい話を聞いたりしても子供がかわいそうと言う気持ちを持てないと言って心配しているという話を聞いたんですが、そういう小さいお子さんは経験が少ないから、感情のボタンをあまり持っていない。だから、そういう大人がみんな感じると信じ込んでいるような感情を感じない。同時に、押え込んでしまった感情もなく、痛み、こわさも少なく、非常に健康と言うことなんですよね。1歳児くらいの歩き始めたばかりの子供とかが、暗闇とか、ちっとも怖がらずに、すいすい歩いていっちゃうとか見たことありませんか?  ボタンがないと感じない、それだけなんですよね。それを、親は、感情のボタンをたくさん持っている自分と同じように、子供も同じように反応することが「ノーマル」と思い込んでいる。それで、子供が情緒発達が異常なんだとか思ったりする人がいる。これは、やっぱり、感情のボタンというものを私達は成長段階に作るものだと言うことを証明しているように思いました。

 

とにかく、感情のボタン、あまりにいろいろなもの持っていて、人には想像のつかない状況でボタンは押されてしまいます。または、勝手にボタン押すだろうなと思いこんでしまうと言うこともあるかもしれません。どっちであれ、人のボタンは人のボタンであると言うこと。そのボタンのことを考えずに、自分の思ったことを表現できる人になるというのが、理想です。自分がちゃんと境界線をもち、自分の幸せを考えて、行動し、自分をちゃんと幸せにしてあげる。それが自分を愛することであり、幸せな自分がいれば、周りも幸せなると言うカラクリなわけですから。

 

人がボタンを持っている理由は、そのボタンとなった状況と言うのを今生ワークしに来たからだと思います。だから、そのボタンを押さないようになんていうのは、逆に、その人にワークさせないことになります。その人が、このボタンを今は押さないで欲しいと言ってこない限り、そういうことを考えることはないんだと思います。もちろんボタンをわざと押してやろうっていうのは違うと思いますが、自分の意志を伝えると言う時は、ボタンのことは考えずにやるのが一番だと思います。

 

そういう意味、あのセドナに来た若い男性は、私のボタンなどまるで考えずに話をしてくれた人でした。彼はとっても心がクリアだったんだと思います。ありがたいことです。

 

話はいろいろと飛び跳ね、ずい分長くなってしまいましたが、前回のトークから、いろいろなことを考えさせられましたので、シェアさせてもらいました。実際、この日曜日は、もう、第18回自愛学トークの日です。お隣りさんでの一件、実は、そのネタにしようかなと思っていたんだけど、きっとそこに関連した話題をやると思います。

 

ということで、今回の17回自愛学トークは1時間半でテープ1本になってます。

 

お値段:  

          会員:  $7/\700

          一般:  $8/\800

 

発送料:  

          日本:  $4

          米国:  $2

 

ご希望の方はお知らせください。

 

それでは、本当にすばらしい2002年になりますように!

 

 

 

LOVE

 

さちこ

 

 

自愛会会報INDEX

自愛会 MAIN PAGE