UNISON HAWAII

自分への愛をすすめる会会報  

2004年5月22日

NO.1 VOL.2

 

大変ご無沙汰の会報ですが、今回から嗜好を変えて、自愛学の原点に戻り、その基本を書いていってみようと思います。HPの自愛学トーク、スピリチャル・コーチセッションのページにまずは、「どうして、自分への愛なのか」を軽く書いてみました。それに続くようなお話をしてみたいと思います。ぜひ「どうして、自分への愛なのか」も読んでみてください。(左のメニューよりお入りください)そのため会報の Volume もここから2と言うことで、No.1,Vol.2でいきたいと思います。

「どうして、自分への愛なのか」を載せた「自分を愛することのすすめ」のページを作成しました。愛の定義も一緒に載せましたのでご覧ください。07/13/04)

 

自愛学講座

Class 1

 

「このままでパーフェクト。100点満点」の意味とは

 

自分を受け入れ、認め、愛することが大切だということは分かっていても、「このままでパーフェクト。100点満点」とは思えない、とおっしゃる方は結構いらっしゃると思います。私もそれで悩みました。結論から言えば、今の自分のすべては意味も理由もあって、この自分になり、魂レベルの自分が意図した通りだからこそ、100点満点だということです。自分が意図しないことは、この地球では起きない。人間として目に見える世界で生きている私達には、その意図されたはずのことがいやなこと、嫌いなことに見えるものもある。しかし、原点は常に私達が意図した通りだということです。

 

現代人が、今のままの自分でいいと言えない理由の一つに、このままを認めると自分がこれ以上成長しなくなると恐れるということがあると思います。自分が向上するために自分をダメだと叱って変っていこうとする。これが過去の時代の生き方でした。私も思いっきりやりました。自分をダメだと言い続け、自分が価値のない人間だととことん思う自分になってしまいました。ここで気づいていなかったことは、今の自分を認めることが、自分が成長しなくなる方向へ導くことではないと言うことです。(本当はその正反対です。)今日の私がパーフェクトということは、最終フォームじゃないということです。人は瞬間々々変って前進していくからです。赤ちゃんが生まれて、話すことも歩くこともできないから、大人よりも劣っているということでしょうか?  この時の赤ちゃんという姿はそのままでパ−フェクトではありませんか?  私達の成長というのは、その時々にパーフェクトで成長し続けているものだと思うんです。大人になっても目に見える変化(肉体的な)があまり見えなくなっていても、常に人は成長し続けているんです。毎日生きているということは必ず自分の中に何か新しいものを受取っているからです。そういう自分にはっきりとした段階の「乳児」「幼児」「思春期」という名前をつける事はもうできませんが、人は常に変り続けていくということは確かなことだと思います。「諸行無常の鐘の音」と昔の方が言うとおり、この宇宙上のものはすべて変化し続ける、それが普遍の真理だと思います。(とっても逆説的ですが)

 

幸せの原点

 

それに今の自分を認めると言うことができた時、魔法が起きます。それは、「どうして自分への愛なのか」にも書きましたが、その魔法とは、自分の中からとんでもなくうれしく幸せな気持ちが湧いてくるということです。安堵感と暖かいエネルギーがどんどんと湧いてきます。まるで、足元がぐんと上がったような感覚です。自分を認めるが自分を愛すということですが、自分を受け入れ、認め、愛した時、自分がとてつもない至福感に包まれます。そのエネルギーは生まれた時から持っていたエネルギーですが、なぜかそこにあることを忘れさせられていたものです。過去(2000年くらい)の人類のテーマはそういうエネルギーにアクセスせずに生きるがテーマだったからだと思いますが、そういう生き方が変ろうとしている今、そのエネルギーにあやかる時代到来なんだと思います。そしてそのエネルギーにあやかる方法が、自分を愛すことなんです。自分を認めた瞬間、そのエネルギータンクの栓があきます。そして至福感を感じた時、何でも自分ができると感じます。まるでスーパーマンのように。と同時に、何もしなくても、指一つ動かさなくても、そのままで満足な自分になっているという状態になっています!  そういう安堵感に満ちた幸せ感こそ、子供の時から、私達が求め続けたものだと思うんです。「あ〜、これでよかったんだ、私は。」

 

この気持ちを得るために人はしゃかりきになって、自分がこれをやった、あれをやったと人から「これでよい」「よくやった」と言ってもらえるであろうことをやって、奔走してきました。その気持ちが人から認めてもらって勝ち得るものだと思っていたからです。なぜか私達は、このままじゃいけないんだって思い込んでいます。(思うに子供の時に、親たちが子供の安全を考えたり、自分達の信じたよい生き方というのに当てはめてくれるために、「それはだめ。あれはだめ」と言ってくれた結果かなと思います。)それにそれはただの誤解だったと思うんですが。子供の時に親たちは、私達が健やかに成長していく証を見ては、喜び、私達子供に、親の喜びを表す愛のエネルギーをくれてました。歩いた、話したという一挙一動に親たちは喜びうれしいエネルギーをくれてきました。そのエネルギーは、親から完全に守られてる安堵感と共に来る幸せなエネルギーでした。私達はその安堵感と幸せなエネルギーに包まれ、幸せを感じ、そのエネルギーをもっと欲しいと思ってきました。子供の知恵で判断するに、それは自分が何かを果たした時によく来るようだと。親にとっては子供が何かを果たそうが果たすまいが関係なく子供を同じ気持ちで愛しているのですが。子供にはそこが見えない。親もなかなか手も回らなかったりして、常にその愛のエネルギーをあげられず、誤解が生じてくる。うれしいエネルギーが親から来ないと自分はこのままじゃいけないんだ、何かして喜んでもらわないといけないんだという学びになったんじゃないかと思うんです。人の幸せの元は本当はこれほど単純なものだったんではないかと思います。

 

いかがだったでしょうか?  どうかご感想をお寄せください。ご質問は大歓迎です。次回は子供性の話をしようと思います。

 

LOVE & ALOHA!

 

さちこ

 

 

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